潜水服は蛾の夢を見る

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トイ・ストーリー4

トイ・ストーリー4 ビジュアルガイド

制作国:アメリカ(2019)

上映時間:100分

日本公開日:2019年7月12日

監督:ジョシュ・クーリー

脚本:ステファニー・フォルソム、アンドリュー・スタントン

出演:トム・ハンクスティム・アレン 他

あらすじ:ウッディたちの新しい持ち主となった女の子ボニーは、幼稚園の工作で作ったフォーキーを家に持ち帰る。ボニーの今一番のお気に入りであるフォーキーを仲間たちに快く紹介するウッディだったが、フォークやモールでできたフォーキーは自分を「ゴミ」だと認識し、ゴミ箱に捨てられようとボニーのもとを逃げ出してしまう。フォーキーを連れ戻しに行ったウッディは、その帰り道に通りがかったアンティークショップで、かつての仲間であるボー・ピープのランプを発見する。一方、なかなか戻ってこないウッディとフォーキーを心配したバズたちも2人の捜索に乗り出すが……。(映画.comより)


「トイ・ストーリー4」日本版予告

 

評価:★★☆☆☆

 

◆感想(ネタバレなし)

トイ・ストーリー4』が製作されると聞いて皆さんはどう思いましたか?正直多くの人が「え、作っちゃうの?」という感じだったと思います。当時は完結編として作られた『トイ・ストーリー3』が非常に良く出来ていたので、やっぱり蛇足の2文字が頭に浮かびます。加えてこのシリーズの最大の功労者と言うべき存在で、今作で監督を務める予定だったジョン・ラセターが不祥事でディズニーを離れてしまったのでなおさら不安でした。

 

結論から言うと…やっぱり『3』で終わりで良かったのではないかと私は思ってしまいました。

 

もちろんそこは天下のピクサー、天下のトイ・ストーリーです。良かったところもたくさんありました。例えば序盤のフォーキーがあらゆる場所でごみ箱を発見しそれに向かって突進していくくだりは本当におかしかったです(フォーキーの声を演じたのは『キョウリュウジャー』の竜星涼だったとエンドクレジットで知りました。「だっこ」の言い方とか絶妙でした)。フォーキー以外の新キャラクターもみんな魅力的でした。くどいぐらい繰り返されるダッキー&バニーのどうやって棚の鍵を奪うかのくだりも笑いました。

 

しかし、『3』の大団円を覆してまで作るべきだったのかというと少し疑問が残ります。これについてはネタバレありの感想で書きたいと思います。

*以下ネタバレです。

 

 

 

 

 

 

◆ネタバレ

アンティーク・ショップでウッディは自分と同じ時期に製造された人形のギャビー・ギャビーに出会う。ギャビー・ギャビーはウッディと同じ装置を使った内蔵音声のある人形だが、装置が壊れていて内蔵音声が出せなくなっていた。ウッディの装置が欲しいギャビー・ギャビーはウッディとフォーキーに追手を差し向ける。ウッディはアンティークショップ店主の孫に拾われて外に出るが、フォーキーは人質に取られてしまう。

 

店主の孫に拾われて公園に来たウッディはそこでボー・ピープと再会する。アンディの元を離れてアンティークショップに売られたボーは2年をそこで過ごしたが、買い手がつかなかったため自ら脱出して特定の持ち主を持たない生活を送っていた。

 

ボーとその仲間の助けを借りてウッディはフォーキーを助けに向かう。バズとバズについて来たダッキー&バニーも合流しアンティークショップに乗り込むが、救出は失敗。諦めきれないウッディは単身でもう一度店に乗り込む。そこでギャビー・ギャビーと対峙したウッディはそこでギャビー・ギャビーの“一度でいいから子供に愛される人生を送りたい”という願いを聞き入れ、自分の装置を提供するかわりにフォーキーを解放してもらう。

 

しかし、ウッディの目の前でギャビー・ギャビーは店主の孫に拒絶される。ウッディはウッディを捜しに戻ってきたボーとともにギャビー・ギャビーを励まし、ボニーの元に連れて行こうとする。その道中でギャビー・ギャビーは迷子の女の子と遭遇し、彼女にもらわれることを選ぶ。

 

ウッディはボニーのもとにたどり着くが、ウッディの心情を察したバズは「ボニーは大丈夫だ」と告げてウッディをボーのもとに送り出す。ウッディは保安官のバッジをジェシーに託し、ボーと仲間たちとともにおもちゃを持ち主に引き合わせる活動に励む。

 

◆感想(ネタバレあり)

元々はシリーズ完結編として作られていた『3』から後付けの形で制作された本作ですが、劇中の設定にも今までそんな設定あったっけ?という後付けの部分が見受けられます。実は着せ替え可能だったボーとか、やたらと内蔵音声に頼るバズとか…でも一番今作で問題なのは「おもちゃは子供の成長を見守るものだ」という設定です。この設定が最後のバズのセリフにつながるので極めて重要なことだったと思うのですが、これってそれまでのシリーズでそんなに強調されていたことでしょうか。少なくともアンディとの関係性においては、ウッディ達おもちゃは一緒に遊ぶ友達のような関係であり、保護者的な立ち位置にはなかった気がします。(『3』のラストでもウッディはアンディに"じゃあ、あばよ相棒”と呼び掛けています)おもちゃが子供の保護者のような立ち位置として描かれるのは今作が初めてではないでしょうか。そしてこの新設定が今作を素直に飲み込めないものにしている大きな要因だと思います。

 

トイ・ストーリーの作品では一貫しておもちゃの幸せとは「子供と遊ぶこと」でした。ウッディ達はシリーズにおいて常にこの幸せを主体的に求めてきました。1作目では正しい遊び方をしてくれないシドを懲らしめ、『2』では展示されるだけになってしまう博物館行きを蹴り、『3』ではおもちゃとして遊んでもらえる環境を求めてアンディの元を去る決断をしたわけです。「子供と遊ぶこと」という幸せは必ずしもおもちゃの都合だけでは手にはいらない上に、いつまでも続くわけではありません。それでもそこに向かって一生懸命進んでいくウッディ達の姿がこのシリーズの大きな魅力だったと思うのです。

 

ところが今作ではウッディがこれまでひたむきに求め続けてきた「子供と遊ぶこと」という幸せは、前述の「おもちゃは子供の成長を見守るものだ」という新設定によってどこか義務的なニュアンスを帯びてしまった気がするのです。私はどうもこれが許せないのです。『2』ウッディが博物館に行かずアンディの家に戻ったのアンディのそばにいるのが義務だったからなのでしょうか。『3』でボニーのもとに移ると決めたのはより小さな子供のそばにいることがおもちゃの義務だったからなのでしょうか。

 

昨今のディズニー作品は既存の価値観からの脱却というのが一つのテーマになっています。『アナと雪の女王』では王子に見いだされることを待望するディズニープリンセスの在り方を否定し、『ズートピア』では動物のキャラクターを通して様々な偏見と差別に挑みました。その流れを考えると『トイ・ストーリー』において、これまでのシリーズで唯一の幸せだった「子供と遊ぶこと」以外のおもちゃの幸せの在り方を提示したのは必然ではあったと思います。

 

しかし、そのもう一つの価値観を提示するために、これまでのシリーズにおいてずっと良しとしてきた幸せの地位を下げてしまったのは上手くなかったと思います。もちろん作品としては「子供と遊ぶこと」の幸せも否定してはいません。新キャラクターのギャビー・ギャビーにはその幸せを嚙み締める結末を用意してあることからもそれはわかります。

 

ただ、肝心なのはウッディの中での価値観の描かれ方なのだと思うのです。今作のクライマックスでは「子供と遊ぶこと」と「自分の幸せを追求すること」という、今までウッディの中で同一視されてきたはずのものが実は別物で、しかも前者は後者の足かせになる義務的なものとして描かれてしまったのです。これは大変ショックでした。

 

◆まとめ

・ギャグのシーンなどおもしろかったところもある。流石ピクサー

・しかし、「子供と遊ぶこと」というこれまでずっとおもちゃの幸せとして描かれてきたものが、義務的なものにすり替わって描かれてしまったのは大変がっかり。